教師のリカレント教育⑤
教師のリカレント教育④ から続き。
前回、「教育は今や、「学校の聖職者」だけがやるものではない。」と書いた。
地域で、家庭で、塾で、○○スクールで、どこででも、子どもが関わるところすべてで行われるべきものだ、と。
この書き方は、正しくはない。
昔の日本は、教育をいたるところでやっていたのだから。
日本の地域社会による教育
昨今の日本は、家庭や地域の教育力が弱くなってきていると言われる。
家庭で身につけるべきしつけや生活習慣、金銭感覚、道徳観、コミュニケーション能力などが身についておらず、そのしわよせが学校にきている、という論調の場合に言われることだ。
かつて祖父母伯父伯母のいた家庭や、ガキ大将やカミナリ親父がいた地域が行っていた教育も、学校が行わなければならなくなった、ということだ。
確かに、日本の地域社会は変貌してきている。
その土地に「土着の」人たちは減り、引っ越しも増えたし、おじいちゃんおばあちゃんと一緒に住んだりする、複数世帯住宅も減った。
替わりに核家族が増えた。
ひとり親家庭も増えた。
地域行事なども変わってきている。
家庭や地域社会の教育力の低下について『学級経営の教科書』(白松 賢)では、サザエさん、ちびまる子ちゃんからクレヨンしんちゃんなどに触れながら、述べられていた。
なるほど、地域は矮小化し、更に父性の威厳は低下している。
家父長制が崩壊し、子どもはどんどん生意気になってきている。
そういえばこの前、「変わることは生きることだ」というようなことを書いた。
この書き方は、どこか懐古趣味になってしまった。
そうだ。我々にできることは、変化にどう対応するかということだ。
管理主義的な教育/自由学習的な教育
上のアニメについても、個人主義が成長し、自立する子どもが増えてきた、ともとれる。
教育について語るとき、管理主義的な方向と、自由学習的な方向(構成主義)と、意見が分かれがちになることがある。
近年は個人が自立し、自律的に学習していかなければ、という風潮が強いと思う。
「個人主義」については、夏目漱石氏が欧米から取り入れていったもののようで、文学の世界においては村上春樹氏が更に推し進めたように思う。
それは、私の成長と呼応している。
管理主義的な教育で思いつくのは、戦前の軍国教育やら、近未来のマトリックス的な社会やら、1984でもいい、また、入試に出る問題を上手に噛み砕いて教えてあげるという塾的なものもそうだ。子どもが何を学ぶべきかを管理する。
そしてそれは、確かに何を学ぶべきかわかっている時代なら、それで通用する。
しかし、明日がどうなるかもわからない世界においては、それでは通用しない。
デューイ学校などで目ざされた、子どもの興味や知的好奇心に基づく自由な学習について、これからは考えなければならない。
ICTによる、アダプティブ・ラーニングだとか、スタディサプリなどのオンデマンドな学習、ブレンディッド・ラーニングで、そういう自由な学習がやっていける時代が来ているように感じる。
しかし、結局のところ、入試で何が出るか、何が問われるかで、学校での学習の方向性はある程度規定されてしまう。
だから、入試改革は大事なのだが、なかなかうまくはいかないらしい。
ところで「学校」は、家庭や地域の変化に対応してきたように思う。
コミュニケーション・スキル(ソーシャル・スキル)を教えようとし、集団の中でのふるまいを教えようとした。
介護福祉について教えようとし、地域社会を教えようとした。
道徳を、英語を、経済を、ICTを……
しかし、一手にすべてを引き受けすぎて、悲鳴をあげてきてはいないだろうか。
私は学校教育に関わる一方で、家庭をもつ身でもある。
もちろん、地域社会に住む一市民である。
教育は、すべての場で行われなければならない。
このブログを始めてみたのは、教育をオープンな場で語ってみたいという、そういう意味も込められている。
(つづく)
参考: