Recurrent Admire

りかれんと・あどまいあー。

[学校・英語・ICT・リカレント・家庭]教育、教職員のウェル・ビーングなどについて

教職員の魅力向上

文科省が教員免許更新制度の見直しを考えている。

教員免許更新制度とは

教員免許更新制度は、10年に一度免許の更新のために研修を受けなければならない制度。

昔は日本も終身有効である国(イギリス、フランス、ドイツなど)であった。

議論は1983年にはじまり、2000年頃からの学力低下論争、教員の質の問題などを受け、第1次安倍内閣教育再生会議が提言、2009年4月から導入された。

 

主な目的は、

  • 一定期間ごとに教員が技術や知識を獲得する機会が得られる
  • 教員としてふさわしくないものを排除出来る

 

 

私ももちろん免許更新を行ったうちの一人だ。

時代の先を行ってオンラインで受講し、テストだけ受けにセンターへ赴いた。

費用は自費である。

 

免許更新制度については、

「教育現場の時間的な負担が増し、子どもたちに関わる時間が減ってしまう」

「受講機会の確保や講習内容についての議論も、尽くされているとは言えない」

などといった指摘がある。

 

当然、研修を増やせば、先生の子どもと向き合う時間は減る。

免許更新制度は、座学での研修が不必要で、もっと子どもといてほしい人たちの時間も奪った。(そうでありたいとは思うが、私がそういう素晴らしい先生だったというわけではない。)

受講機会については、当然年休である。保障なんてされてない。

該当の先生に受講させるために、現場では管理職、事務職員、そして代教の先生が急々とする。

講義内容についても、もちろん先生には個性があり、それぞれキャリアが違ってくるのだから、それぞれに最適化された研修なんて難しい。

講義を行うのも、まだ現場に出ていない、先生のタマゴを養成する大学とかなのだ。

というか、研修を御上からやっちゃろう、というのもなかなか難しい。

 

で、更に教職員が足りない、というモンダイが浮上。

「教師は多忙な中で免許更新のために時間もお金もかけなければならないらしいぞ」

となるので、見直しを迫られたわけだ。

 

教員はその人との出会いが子供たちの人生観を変えるぐらい大切な職業なので、憧れの職業に再び戻していくために、さまざまな取り組みをしていきたい。本気で取り組むつもりでいる

文科相は昨年6月8日に、10年後に講習を受ければ、残りは講習を受けなくて済むようにすべきだという考えを示しているらしい。

 

参考:

教員免許更新制 - Wikipedia

教員免許更新制度の見直し 萩生田文科相「本気で取り組む」 | 教育新聞

 

どんな研修をしていくべきか。[一般的に/目の前の子どものために/個人的に]

では、教員はどんな研修をしていくべきか?

もちろん、紋切り型に「これをすべきだ」とは言えない。

ここからが、いわく難しい「代案を示す」ところだが、簡単にはいかない。

 

まず、「一般的に」必要とされているだろうことや、「御上が」やってほしいことを研修するということ。

今ならGIGAスクール構想のICTだとか、プログラミングだとか、愛国心を含む道徳だとか、英語だとか。

 

次に、「目の前の子ども達が」必要としているだろうことを研修するということ。

いじめが多発。地域的・家庭的に難しい。体力。地域特有の必要性(進学、産業、あるいは地域共同体の思想背景など)。

 

そして、特に地域からも子どもからも必要とはされていないが、個人的に教えたほうがいいだろうということについて研修するということ。

例えばさらに上の人権同和教育、もうひとつ上の環境教育、さらなる多様性、日本からは遠い他文化など。

「さらに上の」とか、「もうひとつ上の」というのは、別の言い方をすれば、「最低限ではない」ということである。

高度なSTEAMとか高度なSDGsとか高度なディベートとか株とか恋愛とかでもいい。

 

学校の研修と個人の研修

職員室の中でも政治があり、派閥がある。

学校の中で研修をして、こういう方向でいきましょうよ、ということは、研修という問題を超えて難しい。

というか、「こういう方向でいきましょうよ」がうまく合意できたから、こういう研修が必要ですね、となるのかもしれない。

 

学校の中での研修と、個人の研修は違うものとして扱うべきかもしれない。

そうなると、学校の方向性のための職員室の研修と、個人の研修、ダブルスタンダードでいかなければならなくなる。

個人の教員としては、目の前の子ども、目の前の分掌などの業務に加えて、職員室の研修と、個人の研修、すでにいくつの負荷がかかっているんだという感じである。

さらに、国の研修として、ICTやら英語やら道徳やらプログラミングやらやらやらやらである。

 

中学校の教員としては、部活動が変わるとそれも研修のようなものだ。

スポーツにはルールがあり、技術があり、練習法がある。

時に審判をしなければならない、審判の方法もある。

保護者とのやりとりがあり、チームの中の子どもたちとのやりとりがある。

部活動経営をするだけで、研修よりも大きな実践知を得られるとも言える。

 

研修よりも実践知?

研修よりも大きな実践知。

そう、免許更新制度は、学校から教員を切り離し、座学のような形で研修を行うという制度そのものの限界もあるのかもしれない。

もちろん、ある意味、学校から教員を切り離し、息をつかせ、客観的、俯瞰的に研修で自分を見つめ直し、新しい空気を吸い、他の人の意見を聞き、学校へ戻れる、そういうメリットもあるかもしれない。

けれども、特にそういう息抜きのようなことを必要としない教員にとっては、お金と時間をとられ、徒労に終わり、現場感覚とかけ離れた座学を学んだところで何になるんだろう、ということになる。

 

大学院でリカレント教育を受けることができた自分としては、研修や研究にも大きな意味はある、と思う。

ただ、リカレント教育の場合は、学ぶ側に学ぼうとする意志や、課題意識がある。

自動的に年が来たから研修を受けにいこう、というのとは違う。

 

研修がそもそも多い

また、○年目研修とか言われるものと切り離せなかったことも、制度としては破綻していた。

県が行う研修と、免許更新がダブルブッキング!なんてことも起こっていたのだ。

これはさらなる負担を生んだ。

 

研修の形

この頃、オンラインで動画を見る、なんていう、オンデマンドな研修も出てきた。

これなら、移動時間はとられず、お金もそんなにかからない。

でも、実演や質疑応答、仲間との練り上げがないと、そこまで役に立たないのではないかという声も。

ライブによるオンライン研修も出てきて、これなら質問しながら、自分もやってみながら、仲間と話しながらいろいろ話せるというメリットはある。

ここはこれからもまだまだ考えていく、慣れて行く必要がある・・・。

 

結論として・・・

教員は学び続ける心をもたなければならない。

日々忙殺されたり、学校に閉じこめられたりするのではなく。

真面目な人が多いけれど、遊んで、視野を広げなければならないところもあると思う。

そういう、自己研修が機能しているところなら、上からの強制的な研修はさほど必要ない。

 

10年目くらいで、自分を来し方と行く末をふりかえるために、外部の研修を受けるのは有意義だと思う。

ただ、他の研修などともあわせて包括的に考えるべきだ。

それ以降、なんの刺激もなく、なんの成長もなく、椅子に座り続けることを危惧する/されるなら、それは問題だが……。

 

自分の毎年の目標をたて、それに見合った研修と実践を行っていく。

自律した学習者を教師自らが演出するような、そんな研修体制ができたらいいな、と思う。