GIGA授業中のイヤホン、子どもたちの会議(自治)
「パパ教員の戯れ言日記」さんとこで、面白いことが書いてあったので引用。
- 授業中にイヤホンをしていた子どもがいた
- 会議で自分たちでルールを作り、イヤホンOKになった
- なんでも禁止にしたらいいわけではないだろう、ルールを考えていくのも学校
実は私、授業中にイヤホンしている様子を見て、「おいおい。さすがにイヤホンはどうなんだ……?」と一瞬焦ったんですよね。でも、それって「他の先生に対してどう言い訳したいいんだ……?」という違う部分に対しての焦りであって、本質ではなかったなーと思います。
のところで、思わず膝を打つ。
そういうことってある。
「他の先生にどう顔向けしたらいいんだ」っていう、同僚性。
ただ、ヨコの連携をとらなければ、「あのクラスはOKで、このクラスはダメなのは可笑しい」という風になるので注意。
イヤホンOKにしたいんですけど、とか、結局職員室に戦場はあるのか?
そのあたり、理解ある管理職、理解ある同僚ならいいのだが・・・。
記事の最後に、SNS禁止していたから、使い始めた途端炎上する、とか、カメラも盗撮に使ってしまうんだよ、とか。
遠ざけてきたから、大人が使えない、というところにも首肯。
いやはや、「普段使いのICT」って、難しい・・・。
教職員の魅力向上
教職員の魅力向上へ取り組む、ということが言われている。
教職員自体の魅力向上も必要なのだが、それって「教員」「教師」「先生」ってだけの問題なのだろうか?
もしかして、未来が見通せない時代、教育の魅力が低下しているのではないか?
教育の魅力、再発見。
教えて、育てる、どんなことでも。
人は成長できる。
「こういう技術が上がったら幸せになれるよね」という、未来への「あこがれ」。
泉谷閑示さんの本に、こんなことが書かれてあった。
これから私たちは真に憧れるものを持っていなければ進んでいけないような時代を生きていくことになるでしょう。そこで、憧れに耐え得るほどのカルチャーを、私たちがこの先に生み出していけるかどうか。(…)もはや、思想も芸術も自分を飾立てるために用いられるべきではなく、それを食べて血肉にしなければ進んでいけないところにわれわれは差し掛かっているのではないか。(『仕事なんか生きがいにするな』「おわりに」より)
未来を見つめて、希望を抱くこと。
次の世代を想うこと、育てること。
教育って、文化、社会、人類にとっての営みそのものなんだよなあ。
P.S.鬼滅の刃とかワールドトリガーとか、世代を超えて、次世代を育てる先輩、みたいなことを描いている作品に、いま、ハマっています。
社会に開いていくこと
閉鎖的になっていた学校を、開いていこう。
そういう動きがある。
もちろん、防犯や、プライバシーなど、気をつけなければならないところもある。
しかし、①教員の多忙化 ②生徒の学びの質 から、学校は、開かれていかなければならない。
①教員の多忙化 については、学校だけで、教員だけで抱え込みすぎないということだ。
登下校、放課後、会計、給食、土日授業など。
プログラミング、英語、性教育、薬物乱用防止、ネットリテラシーなど。
地域と協力して、子どもを育てていきたい。
②生徒の学びの質 については、教師だけの教えでは、生徒の学びに不足が生じる場合がある、ということだ。
例えば、どんなにプロの教師でも、経験職種は多くてもせいぜい2種類か3種類だろう。
この道教師一筋、という人だって多いことだろう。
そんな教師が、「社会」や「世界」について語るのはおこがましい。
実際のその分野で、現場で働いている人の「語り」に任せるのがいい。
めんどくさいけど、学校での学びを、学校の中だけで通用する、ということにはしないほうがいい。
それは、子どもたちが卒業したら出て行く先のことを考えたら、自明だ。
これまでは、文化祭が、地域に学習の成果を発表する場だったように思う。
今はネットの普及により、今までにないような社会との「繋がり」が出てきている。
学んだことをホームページなどで公表、表現するだけでもいい。
以前、あるアスリートの姿を全校によるモザイク・アートで作成した時、撮影した写真をその選手の元に送信する、ということを行った。
ちょっとした応援になればいいな、と思うし、文化祭でお披露目しただけではない、生徒たちには満足感があったと思う。
以下の取り組みは、アプリ開発者といっしょにアプリを開発し、それをアプリストアに出す、ということまでしてしまっている。
すばらしい。
「マチアルキ」(東京書籍)というARソフトを使って、我が町について、学んだことを紹介するデジタル・スタンプラリーにしてしまった事例もある。
プライバシーなどに注意しなければならないけれど、学んだことを実社会に出してみる、という取り組みについて、可能性をどんどん広げていきたいな、と思う。
注意点:
ただし、「実学志向」になってはいけない。
社会が要請するからそれを学ぶ、とか、社会が必要とするからそれを学ぶ、というようなことだ。
もちろんそういう面も必要だが、「そうでない面」も、学校には、学府には、必要だと思うのだ。
いま、社会に必要とされていないからと言って、それが本当に不必要な学びなのか?
また、のちのちになって、じわじわと染み出てくるような、遅効性の学びもあるかと思うのだ。
今、この瞬間、社会が必要としている、即戦力的な学びに偏りすぎないこと、も、社会に開いていく学校が、同時に、考え続けていかなければならないことだとは思う。
教職員の魅力向上
文科省が教員免許更新制度の見直しを考えている。
教員免許更新制度とは
教員免許更新制度は、10年に一度免許の更新のために研修を受けなければならない制度。
昔は日本も終身有効である国(イギリス、フランス、ドイツなど)であった。
議論は1983年にはじまり、2000年頃からの学力低下論争、教員の質の問題などを受け、第1次安倍内閣で教育再生会議が提言、2009年4月から導入された。
主な目的は、
- 一定期間ごとに教員が技術や知識を獲得する機会が得られる
- 教員としてふさわしくないものを排除出来る
私ももちろん免許更新を行ったうちの一人だ。
時代の先を行ってオンラインで受講し、テストだけ受けにセンターへ赴いた。
費用は自費である。
免許更新制度については、
「教育現場の時間的な負担が増し、子どもたちに関わる時間が減ってしまう」
「受講機会の確保や講習内容についての議論も、尽くされているとは言えない」
などといった指摘がある。
当然、研修を増やせば、先生の子どもと向き合う時間は減る。
免許更新制度は、座学での研修が不必要で、もっと子どもといてほしい人たちの時間も奪った。(そうでありたいとは思うが、私がそういう素晴らしい先生だったというわけではない。)
受講機会については、当然年休である。保障なんてされてない。
該当の先生に受講させるために、現場では管理職、事務職員、そして代教の先生が急々とする。
講義内容についても、もちろん先生には個性があり、それぞれキャリアが違ってくるのだから、それぞれに最適化された研修なんて難しい。
講義を行うのも、まだ現場に出ていない、先生のタマゴを養成する大学とかなのだ。
というか、研修を御上からやっちゃろう、というのもなかなか難しい。
で、更に教職員が足りない、というモンダイが浮上。
「教師は多忙な中で免許更新のために時間もお金もかけなければならないらしいぞ」
となるので、見直しを迫られたわけだ。
教員はその人との出会いが子供たちの人生観を変えるぐらい大切な職業なので、憧れの職業に再び戻していくために、さまざまな取り組みをしていきたい。本気で取り組むつもりでいる
文科相は昨年6月8日に、10年後に講習を受ければ、残りは講習を受けなくて済むようにすべきだという考えを示しているらしい。
参考:
教員免許更新制度の見直し 萩生田文科相「本気で取り組む」 | 教育新聞
どんな研修をしていくべきか。[一般的に/目の前の子どものために/個人的に]
では、教員はどんな研修をしていくべきか?
もちろん、紋切り型に「これをすべきだ」とは言えない。
ここからが、いわく難しい「代案を示す」ところだが、簡単にはいかない。
まず、「一般的に」必要とされているだろうことや、「御上が」やってほしいことを研修するということ。
今ならGIGAスクール構想のICTだとか、プログラミングだとか、愛国心を含む道徳だとか、英語だとか。
次に、「目の前の子ども達が」必要としているだろうことを研修するということ。
いじめが多発。地域的・家庭的に難しい。体力。地域特有の必要性(進学、産業、あるいは地域共同体の思想背景など)。
そして、特に地域からも子どもからも必要とはされていないが、個人的に教えたほうがいいだろうということについて研修するということ。
例えばさらに上の人権同和教育、もうひとつ上の環境教育、さらなる多様性、日本からは遠い他文化など。
「さらに上の」とか、「もうひとつ上の」というのは、別の言い方をすれば、「最低限ではない」ということである。
高度なSTEAMとか高度なSDGsとか高度なディベートとか株とか恋愛とかでもいい。
学校の研修と個人の研修
職員室の中でも政治があり、派閥がある。
学校の中で研修をして、こういう方向でいきましょうよ、ということは、研修という問題を超えて難しい。
というか、「こういう方向でいきましょうよ」がうまく合意できたから、こういう研修が必要ですね、となるのかもしれない。
学校の中での研修と、個人の研修は違うものとして扱うべきかもしれない。
そうなると、学校の方向性のための職員室の研修と、個人の研修、ダブルスタンダードでいかなければならなくなる。
個人の教員としては、目の前の子ども、目の前の分掌などの業務に加えて、職員室の研修と、個人の研修、すでにいくつの負荷がかかっているんだという感じである。
さらに、国の研修として、ICTやら英語やら道徳やらプログラミングやらやらやらやらである。
中学校の教員としては、部活動が変わるとそれも研修のようなものだ。
スポーツにはルールがあり、技術があり、練習法がある。
時に審判をしなければならない、審判の方法もある。
保護者とのやりとりがあり、チームの中の子どもたちとのやりとりがある。
部活動経営をするだけで、研修よりも大きな実践知を得られるとも言える。
研修よりも実践知?
研修よりも大きな実践知。
そう、免許更新制度は、学校から教員を切り離し、座学のような形で研修を行うという制度そのものの限界もあるのかもしれない。
もちろん、ある意味、学校から教員を切り離し、息をつかせ、客観的、俯瞰的に研修で自分を見つめ直し、新しい空気を吸い、他の人の意見を聞き、学校へ戻れる、そういうメリットもあるかもしれない。
けれども、特にそういう息抜きのようなことを必要としない教員にとっては、お金と時間をとられ、徒労に終わり、現場感覚とかけ離れた座学を学んだところで何になるんだろう、ということになる。
大学院でリカレント教育を受けることができた自分としては、研修や研究にも大きな意味はある、と思う。
ただ、リカレント教育の場合は、学ぶ側に学ぼうとする意志や、課題意識がある。
自動的に年が来たから研修を受けにいこう、というのとは違う。
研修がそもそも多い
また、○年目研修とか言われるものと切り離せなかったことも、制度としては破綻していた。
県が行う研修と、免許更新がダブルブッキング!なんてことも起こっていたのだ。
これはさらなる負担を生んだ。
研修の形
この頃、オンラインで動画を見る、なんていう、オンデマンドな研修も出てきた。
これなら、移動時間はとられず、お金もそんなにかからない。
でも、実演や質疑応答、仲間との練り上げがないと、そこまで役に立たないのではないかという声も。
ライブによるオンライン研修も出てきて、これなら質問しながら、自分もやってみながら、仲間と話しながらいろいろ話せるというメリットはある。
ここはこれからもまだまだ考えていく、慣れて行く必要がある・・・。
結論として・・・
教員は学び続ける心をもたなければならない。
日々忙殺されたり、学校に閉じこめられたりするのではなく。
真面目な人が多いけれど、遊んで、視野を広げなければならないところもあると思う。
そういう、自己研修が機能しているところなら、上からの強制的な研修はさほど必要ない。
10年目くらいで、自分を来し方と行く末をふりかえるために、外部の研修を受けるのは有意義だと思う。
ただ、他の研修などともあわせて包括的に考えるべきだ。
それ以降、なんの刺激もなく、なんの成長もなく、椅子に座り続けることを危惧する/されるなら、それは問題だが……。
自分の毎年の目標をたて、それに見合った研修と実践を行っていく。
自律した学習者を教師自らが演出するような、そんな研修体制ができたらいいな、と思う。
我が子にスマホを持たせるべきか
【事例1】
中二の息子に、スマホの使いすぎを何度注意しても聞かず、成績低下と、微量ながら課金のルールを破ったことを機に、スマホの没収を決めました。
そのまま没収しています。
・・・必要なかったのか?
【事例2】
中学受験が終わって、娘にスマホを買いました。
卒業して会えない友だちとの連絡手段にしたいのだそう。
親子の間で使用時間、使用方法、注意点などでルールを決めました。
この世界で大人になっていく中で、もたせて普段使いすることは教育の一環だと思っています。
***
「自律した人間」を育てていかなければならないのはわかるのだけれど、そのためには「つきあってあげる大人」が必要です。
「つきあってあげる」の中には、成功や失敗や挫折や忍耐や、いろいろなものが含まれます。
スマホをもたせるときに、大人には、保護者には、その「つきあってあげる」責任と覚悟が必要です。
【事例1】の保護者さんの場合、責任をもって取り上げました。
その後、息子さんの友人関係や、中毒症状などからの立ち直り、大人になってからどうやっていくのかなどの見守りが必要でしょう。
【事例2】の保護者さんの場合も、一緒に試行錯誤していくことでしょう。
トラブルは自分のところからだけ出るわけではなく、スマホなどで「つながっていく」現代、どこでどんな形で出現してくるかはわかりません。
私の子どもたちはまだ自分のスマホは持っておりませんが、親のスマホでいろいろ経験していっております。
視力低下、学校で話についていくためのつきあいゲーム、オンラインゲームのおもしろさと怖さなど。
常々話しながら、進めています。
ICTの問題は、今過渡期です。
どんな犯罪が起こるかわかりません。
大人だって悩んでいます。
でも、使わせなければ使わせないで、それはそれで将来のリスクになります。
誰も生きたことがないこの時代を、危険に対する嗅覚はもちながらも、オモシロガリながら生きていくしかないのかなあ、と思っています。
日々、サーバーテロなど、この分野で戦っておられる皆さま、ありがとうございます。
そうした土台がある上で、楽しみながら、生きていくしかないのかなあ、と思っています。
×ジャッジし合う職員室
僕は、評価されたいと思うほうだ。
それは、普段から他人のことを上か下かと評価、値踏みしているからなのだろうか。
自分が評価に敏感だから、他の人もそういう目で見てしまうのだろうか。
教員と評価は切り離せない。
評価は社会から切り離せない。
しかし、評価に縛られて生きるのは、幸せではない。
教員同士でも評価しあっているところは多いのではないだろうか。
でも、ジャッジし合う職員室って、息苦しい。
校長先生なんかは、職務評価などで仕方なく評価しなくちゃいけないだろうけれど、平教員同士は、なんかもっと、同志とか、良きライバルとか、もっと違う関係でいたい。
先生の魅力
教員採用試験の倍率が話題になっている。
ある県などは、受ければ通るの1倍台。
このブログでは、教員の魅力について考えたりもしているけれど、、、
自分が教師をやっていて、
- もっと軽やかに生きたい
- もっと魅力的でありたい
- もっと楽しそうでありたい
- 毎日笑顔でありたい
とかって、思うからなあ。
教員の魅力向上。
ライフワークだ。
学校で育成すること
学校で育成するのは、学力だけではない、という話。
学力+社会性=生きる力
日本の学校は、社会性、人格の完成をも目ざしている。
だから、学力向上だけを切り離すことができない。
そして、「人格の完成」は、みんなの共通のものさしで語ることが難しいものでもある。
ここが、日本の教育のすばらしさでもあり、日本の教育の難しさでもあると思う。
そして、日本の教師のありようの難しさでもある。
教師のありよう。
破天荒な教師に学ぶと、ブレイクスルーをしやすい、発見や発明型の子どもが育つかもしれない。
でも、教師は社会性が大事だから、過度にルールに縛られた、ロボット型の、典型的な公務員体質のほうがいいかもしれない。
・・・それでいいのか。
さらに、ほんとうのところ、学力ってなんだ、と言われると、また難しくもなる。
テストの点数?
ノーベル賞に値する研究の数?
新規ベンチャーの数?
学校に来たら、学力も、社会性も、身につけられる。
だから、学校に来たほうがいい。
そう言えるような実践をしたい。
無知の知のために大学院に来たのかもしれない
大学院に来た理由
自分がバカだってことに気付くために
バカのメタ認知だ
自己調整力みたいなものが結局大人の僕にもついていなくて
そういうのを身に付けていかなきゃなぁっていうことを考えなおしたり
その方法論、ハックスを考えたりすることもできている
ゲーム障害にならないための中学校教育プログラム開発みたいなことをやって、キーワードは
・メタ認知
・方略
・自己調整
だった。
ステイフーリッシュ、ステイハングリーのフーリッシュは無知の知
自分が馬鹿だっていうことに気づくっていう事でもある
村上龍が「どれだけ自分が無知なのかをわかる情報を得る、それがインプットと呼ばれる」と『①死なないこと②楽しむこと③世界を知ること』に書いていたが、同じようなことかな。