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りかれんと・あどまいあー。

[学校・英語・ICT・リカレント・家庭]教育、教職員のウェル・ビーングなどについて

教師のリカレント教育③

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教師のリカレント教育② から続き

 

英語でre-というのは、「再び」という意味がある。

リターン、リメンバーなどと同じだ。

 

currentには「今、現在」というような意味がある。

currencyには「貨幣の流通」というような意味もあって、つまりリカレントとは、「再び」「現役に」というような意味もあろう。

 

実践と研究

教師という職業には、ふたつの面がある。

ひとつは実践家という面と、

もうひとつは研究家という面である。

 

学校現場で、実際の子どもを前にして実践するのが教師である。

実際に姿を見せて、子どもの学びをつぶさに確認しながら、共に活動する。

そういう意味で、実践家である。

 

一方で、教師は授業の前に「教材研究」をするし、子どもの行動をよく「観察」するし、教授方法について「模索」している。

そういう意味で、研究家でもある。

 

私も「実践」しながら「研究」してきた者のひとりであるが、今年に関しては「研究」専門、ということである。

 

しかし本来、教師は「研究」しながら「実践」し、またそれをふりかえって「研究」しながら、やっていかなければならない職業である。

常に現在形であり、止まることがない。

そういうことを、「省察的」という。

(ところで「省察」を、「しょうさつ」と読んだり、「せいさつ」と読んだり、地方によって違うことを、このたび知った。) 

けれど、多忙で殺人的な"ブラック"(※)環境では、なかなかそれが難しくなっていたのは事実である。

事前研究がおろそかになり、行き当たりばったりで付け焼き刃的な授業になっていく。ふりかえることがおろそかになり、あるいはふりかえることすらやめてしまい、日々をなあなあで過ごすようになる。

 

※ブラック、という言い方から差別的な意味を引いて読んでください。ブラック・ライブズ・マター。

実践は多忙

ひとつ、考えていきたいこととして、このように教師が常に「現役(current)」で「省察的」であるためにはどうしたらいいか、ということがある。

これはまた、別に機会で。

 

もうひとつ、考えていきたいこととして、教師の多忙についてがある。

最近、部活動に関する文部科学省の改正案が(いいか悪いかは別として)示されたが、部活動についても変えていかなければならないのは間違いないと思う。

 

もちろん、部活動の汗、涙、連帯、忍耐、達成感を否定するわけではない。

私もそれに携わってきた。

特に、運動部で。

そっぽを向いていた子どもたちが団結して勝利したり、

肉体的にも、精神的にも「強く」なるということはなかなか得られないことである。

その機会を、システムを、なくすのではなく、どこかへ移していかなければならない。

 

学校は「なんでも屋」の「ボランティア団体」ではない。

 

その「心意気」はいいのだけれど、心意気だけではやっていけない。

たちゆかない。

 

悲鳴をあげている子どもやその保護者。

悲鳴をあげている教員。

 

この問題は、「やりたい人」と「やりたくな人」という分断を生むので、大変難しい問題だ。

 

この問題もまた、別の機会で深く掘り下げてみたい。

(つづく)