教師のリカレント教育④
教師のリカレント教育③ から続き。
私は10年以上前、教育学部ではない、他の学部で学んで教師になった。
大学3年生くらいまでは、自分が何をして生きていくのか、
自分の「なりわい=生業=生きていく業」がなんなのか、いまいちよくわかっていなかった。
綴り方の取り組み
教育実習に行くあたりから、教員免許取得に必要な講義もとりはじめた。
その中で印象的だったのは、「綴り方」の取り組みだ。
子どもたちの書いた日記をどのように観察し、日々の子どもたちを「見取る」か、というところに教育の言い知れぬ「物凄さ」を感じた。
コルチャック先生
そして、ヤヌシュ・コルチャック氏の話に感動した。
子どもたちの手を引いて、ユダヤ人強制収容所でこの世を去った、コルチャック先生の話である。
このブログ名にした「あどまいあー」というのは、英語の「admire」をとっている。
コルチャック氏は英語では話していなかっただろうが、「あこがれ」と日本語訳される言葉を用いて話していた。
英語の「admire」が、それにきっちり当てはまっているかはわからないが、崇高なものを感嘆したりほれぼれしたりして、尊敬してあこがれる、というような意味かと思う。
私は子どもに、教師としての自分を尊敬してあこがれてもらいたいわけではない。
子どもが、未来に向けてなんとなく希望をもち、進んでいく力のような、心の中の灯火、心の中の未来へのあこがれをもってほしい、と思っている。
それが第一で、その灯火をともす方法のひとつに、自分の背中を見せる、というのがあってもいいとは思っている。
「聖職者」について
尊敬してあこがれられる、聖職者、という言葉がある。
教師は聖なる職業である、というような意味で使われていた(いる)。
神聖なる未来を担う子どもを、教え、導き、さとし、育てる……。
そういう意味で、尊い職業であると思うし、すばらしい仕事だと思っている。
誇りに思う。
けれど、2つの点で、この言葉は死語である。
まず1つ目は、私は聖なる人物ではないし、あなたもそうだろう。
俗っぽい人間である。欲望をもっているし、よこしまな心ももっている。
人間くさく、どこか弱さや醜さがあって、あるいは小さな悪は、心の奥に潜めている。
良くないと思われることも、ある程度許容して生きている(エアコンを使うとか、車に乗るとか、食べきれない場合があるとかいうことである)。
誰が聖職者になれるのか。
2つ目に、教育は今や、「学校の聖職者」だけがやるものではない。
地域で、家庭で、塾で、○○スクールで、どこででも、子どもが関わるところすべてで行われるべきものだ。
そういう意味で、教育を行う者が聖職者というのなら、私も、あなたもそうだろう。
教育された次の世代の子どもにたくさなければならない社会人すべて、聖職者である。
2つの点で、「聖職者」という言葉は死語だと思うが、しかし、教師は「全体の奉仕者」であり、「教育のプロ」でなければならないと思う。
この2つの意味を、現代ではキラキラネーム的に「聖職者」というのなら、この言葉は運用可能である。
けれども、「聖職者」だから、コロナにかかったら新聞報道されるし、「聖職者」だから新聞沙汰は無条件に実名報道される、というような、なんでもかんでも弱い立場やストレスフルな状況に追い込むような状況は、良くないことだと思う。
このことは、「教師の犯罪」から子どもを守る、ということとトレード・オフではあるが。
子ども(人間)をつぶさに観察するということや、あこがれを与えるという未来志向、そういうことが教育だと知り、就職活動よりも教員採用試験だ、と思い、今の道に入ったわけだ。
(つづく)