不登校について
全国の不登校15万人
1日も行けていない子、1万人
学校に来れない理由はいろいろあると思う。
一概に言えることではない。
教員は、それぞれのケースについて、真摯に向き合うことでしか、解決に向かうことはできない。
無理矢理でも学校へ?
学校へは「行くべきだ」。
強制力なくして公教育は成立するだろうか?
人間誰しも(あるいは多くは)できることならサボりたい、と思うことだろう。
行けるけど、行きたくない、というのは、教育の機会すら与えられない子どもたちに対して申し訳なくはないのか。
学校へは「行くべきだ」。
だから、親が車で無理やり連れてきて、そこから教師が力づくで引っ張り出す。
そういうことが必要な子も、いるかもしれない。
先生があの時、無理にでも○○させてくれたことが、今の自分につながっている、というようなことを言う人もいるだろう。
でも、無理矢理、ということは、私にはできない。
そこには、何らかの事情があるのではないか、と考える。
あるいは、乗り越えられない理解不能な壁があるかもしれない。
無理やり引っ張ってくるのは暴力じゃないか、と思う。
寄り添い、話しあってみることが大切である、と考える。
多様性を標榜するなら、学校に行かない選択肢も用意されてしかるべきだ。
しかしそれはやさしすぎる対応かもしれない。
やさしさも、また難しいテーマだ。
学校へは「来たほうがいいよ」
ともかく、学校へは「行くべきだ」という前提が、崩れてしまった。
コロナによる臨時休校もあり、学校には行かなくても大丈夫じゃないか、という気運も出てきた。
だから学校教育は、「学校へは来たほうがいいよ」ということを、考えていかなければならない。
では、「来たほうがいい学校」とは何か。
すぐに思いつくのは「楽しい学校」である。
楽しいと、人はそれを繰り返そうと思う。
楽しいと、長続きする。
逆に、楽しくなければ続かない。
このことは、家庭で習慣をつけさせようとしているパパやママにも言える。
モノより思い出・経験を売っている人にも言えることだ。
ズボラで3日坊主も続かない、新しい習慣習得に困っている自分にも言えることだ。
教育はエンターテインメントではない。
だから、楽しい、が目標ではない。
では、エンターテインメントは教育じゃないのか。
エンターテインメントは享楽的で何も考えず、心に何も残すことなく、ためにならず、将来の役に立たないものでいいのか。
教育は、いたるところにある。
ただ学校は、教育に特化した場所である。
そこに来たときに提供される「価値」についても、考えてみる必要がある。