学びに制限は必要か
どこまでも自由に、学びたいことを学びたいまで。
学びに制限をなくすと、もっと生き生きと学べるんじゃないか。
大人の自主勉強って、なんであんなに楽しいかというと、テストもないし、自由だし、どこまでも飛んでいける感じがいいんじゃないかと思うのです。
では、学びにかかっている制限とは何か?
テストがあるので、その範囲を学ぶということ。
学校、という場所が制限していること。
教師、という担当者が制限していること。
学習指導要領で制限していること。
金銭面で制限していること。
いろんなことで、教育って制限されていますよね。
でもその制限は、「ここまでは勉強しておいてほしい」「これは一般常識だから」「ここまでは、この分野の専門家としては学んでおかないといけないから」といったようなものの要請から、できているんですよね。
アメリカなどでは、飛び級制度があったり、学びたいと思うことを学びたいように追究することも許されているようです。
一芸に秀でていれば、他のことはかまわない、というような尖ったことも許されるみたいですが……。
識字率などから、日本の教育水準は高い、というような見方もできますし、どういうものを好むか、という文化的背景もあるでしょう。
ともかく、教育が何を扱うのか、ということを考えるのは、何をどのように制限するのか、ということなのかもしれない。
でも、本来学びは、自由であるはずだ。
制限された中で、どれだけ自由の息吹を感じられるか……
制約の中で学び、そのあとどこまで自由に羽ばたかせるか……
そんなことも、考えていかなければなりませんね。