Recurrent Admire

りかれんと・あどまいあー。

[学校・英語・ICT・リカレント・家庭]教育、教職員のウェル・ビーングなどについて

「らしさ」の議論

中学生「らしい」って、どういうことだろう。

 

宮城県のある町で、中学校の校則で禁止されているツーブロックの髪形をめぐって、議論があったという。

 

news.yahoo.co.jp

 

なぜ、禁止されているのか。

それは、中学生「らしくないから」という理由。

 

学校現場で働く者として、わからなくはない。

そして事実、(特に高齢の方に多いと思われるが)、地域の受けがよくない部分もある。

 

外見だけで人を判断するなとは教えるけれど、地域の人から見れば、その生徒の内面まで見える機会は少ない。

「荒れた(と思われてしまう)」姿、格好で通学する生徒が増えれば、その中学校は、その地域の子どもはどうなってしまったのか、となってしまう。

そして、外見だけで人を判断しがちな我々は、やっぱりその地域がどのように外から見られるのかという「外見」を気にしてしまうだろう。

地域の子どもたちには、しっかりしてもらっていてほしい。

ならばまず、形から。

 

昔は丸刈りしか許されなかった。

価値観は変容する。

価値観は世代によっても異なる。

でも、地域社会はそのような価値観のグラデーションで形作られている。

 

校則は難しい。

それは大人からすれば子どもたちに良くなって欲しい、良くあって欲しい、良く見られて欲しいという「願い」のようなものなのだが、

子どもにとっては「制限」「ルール」「レール」のようなものであり、時には牢獄のようなものである。

盗んだバイクで走り出したくなってしまうものだろう。

 

そういえば昔、『ぼくらの7日間戦争』を読んだ。

今も新装版が出て、子どもたちによく読まれている。

あれは、がんじがらめの大人たちに対する、子どもたちの宣戦布告であり、反乱だった。

 

ちょっとひねた意見になるが、そういう「抑圧」って、将来のエネルギーにつながったりもするんだけどな、とも思う。

テスト直前の、逃げるために他のことへ邁進するエネルギーみたいな感じで。

教師としては、そういう視点ももちたいけれど、それであえて「抑圧」を与える大人であることもいいとは思う。

ドラマ『女王の教室』って、そういうことでもあったのではないか。

 

校則については、子どもたちを含めて考えるのがこれからのスタンダードなのではないか。

この記事では大人だけの、大人の議会だけで話し合われていて、最後は校長判断。

特別活動が機能する学校なら、生徒会中心に、生徒総会などで話し合ったりすればいいと思う。

議論の中で子どもたちのも考えるし、自分たちでルールを考え、変更したり、維持したるするのは民主主義の勉強になる。

地域のことを考えるきっかけにもなる。

 

学びに制限は必要かICT導入の不安でも書いたが、どこまで制限するか、どこまで自由にするか、とかいう問題は、今、いたるところで散見される問題なのだなあ。