「らしさ」の議論
中学生「らしい」って、どういうことだろう。
宮城県のある町で、中学校の校則で禁止されているツーブロックの髪形をめぐって、議論があったという。
なぜ、禁止されているのか。
それは、中学生「らしくないから」という理由。
学校現場で働く者として、わからなくはない。
そして事実、(特に高齢の方に多いと思われるが)、地域の受けがよくない部分もある。
外見だけで人を判断するなとは教えるけれど、地域の人から見れば、その生徒の内面まで見える機会は少ない。
「荒れた(と思われてしまう)」姿、格好で通学する生徒が増えれば、その中学校は、その地域の子どもはどうなってしまったのか、となってしまう。
そして、外見だけで人を判断しがちな我々は、やっぱりその地域がどのように外から見られるのかという「外見」を気にしてしまうだろう。
地域の子どもたちには、しっかりしてもらっていてほしい。
ならばまず、形から。
昔は丸刈りしか許されなかった。
価値観は変容する。
価値観は世代によっても異なる。
でも、地域社会はそのような価値観のグラデーションで形作られている。
校則は難しい。
それは大人からすれば子どもたちに良くなって欲しい、良くあって欲しい、良く見られて欲しいという「願い」のようなものなのだが、
子どもにとっては「制限」「ルール」「レール」のようなものであり、時には牢獄のようなものである。
盗んだバイクで走り出したくなってしまうものだろう。
そういえば昔、『ぼくらの7日間戦争』を読んだ。
今も新装版が出て、子どもたちによく読まれている。
あれは、がんじがらめの大人たちに対する、子どもたちの宣戦布告であり、反乱だった。
ちょっとひねた意見になるが、そういう「抑圧」って、将来のエネルギーにつながったりもするんだけどな、とも思う。
テスト直前の、逃げるために他のことへ邁進するエネルギーみたいな感じで。
教師としては、そういう視点ももちたいけれど、それであえて「抑圧」を与える大人であることもいいとは思う。
ドラマ『女王の教室』って、そういうことでもあったのではないか。
校則については、子どもたちを含めて考えるのがこれからのスタンダードなのではないか。
この記事では大人だけの、大人の議会だけで話し合われていて、最後は校長判断。
特別活動が機能する学校なら、生徒会中心に、生徒総会などで話し合ったりすればいいと思う。
議論の中で子どもたちのも考えるし、自分たちでルールを考え、変更したり、維持したるするのは民主主義の勉強になる。
地域のことを考えるきっかけにもなる。
学びに制限は必要かやICT導入の不安でも書いたが、どこまで制限するか、どこまで自由にするか、とかいう問題は、今、いたるところで散見される問題なのだなあ。