技術との共同作業
この頃、音楽を聴いていて、音響の進化、すごいなあと思う。
別にヘッドフォントかこだわっていない、ふつーの音楽リスナーですが、その進化はわかる。
MacBookAir2020の音響とか、なかなか広がりがあって。
昔の音楽を引っ張り出してきて聴いても、なんか新しく聞こえたりして。
ステレオで聴くときと、イヤホンで身近に聴くときと、車で風やエンジンを感じながら聴いたりするときと、音楽って聴き方によっていろいろ感じ方も違う。
AirPodはまだ使ったことがないけれど、この前ごりゅごさんとこのPodcastで、ノイズキャンセリングとか、聞こえてくる角度?とかも再現するらしくて、それってすごい。
昔、イヤホンの左と右で違う音が聞こえてくるだけで、すごい!と感じていた少年時代だったのに。
音楽アーティストと技術って、共同作業だと思う。
映画とかゲームとかもそうだろうけれど。
技術の進歩が、表現のブレイクスルーを起こしたりする。
歌手にとって、それは幸福なことか不幸なことか。
歌が下手な人も、ある程度なら、音響でなんとかできてしまうのではないか。
逆に、大衆の前で、ステージの上で歌を競わせたら、本当にうまい人だけしか、聴けたものじゃないのではないか。
いや、それではささやくように歌ってくれたCharaとかは芸術が成立しなかった。
オペラ歌手のようなものしか認められなくなっていたかもしれない。
技術の進歩によって、表現の幅は広がってきたと思う。
歌えなくても、声をボカロにしてとか、
楽器を演奏できなくても、正確なピッチとリズムで奏でてくれる時代だ。
で、教育の話に入る。
ICTと教師の共同作業の時代がやってきている。
ただ生徒を目の前にして、教師の話術と、チョーク一本でやっていた時代は、終わろうとしている。
すばらしい映像の録画や、心踊る効果音、BGM、画像検索で探してきた面白い画像などで、授業がぱっと華やかになるかもしれない。
でもそれって、その人自身の力ではない。
教育技術、ということを考えるとき、それって誰にでもインストール可能でなけりゃ通用しないよね、と考えた人がいた。
Hacksとかと一緒で、誰でもが使える教育技術なら、教員養成などでも教えることができて、通用する。
それと同じように、このICTコンテンツなら生徒が食いつくよと、50分の授業の中で15分の動画(別にスライドでも、ダウンロードした教材でもいいが)を3つ見せて、それで終わりとなるなら、教師はそこに必要なのか。
今後の教員養成、教員の成長について考えるとき、ICTを抜きにして語れなくなった。
どこまでがその人自身の能力なのか。
それこそ、ステージの上に裸一貫立って、それでどこまで聴衆を魅了できるか、競ってみればいいのか。
いやいや、教師はアーティスト表現者ではないので、ファシリテーター、チューター、伴走者でいいわけで・・・?
電子部品を身体に埋め込んでいくような時代。
あらゆる物事について、見方、考え方も変化を求められている。
難しい時代?
それとも、よく頭を使って、楽しい時代だろうか。
ともかく、言葉や、技術や、暗示に身体を乗っ取られないように。
自分の頭で考えること。
思考停止はだめだ。
人に会わず、外に出ず、内を見つめるステイホームの中で、考えたことがあっただろう。
それを忘れずに、いかなければならない。