Recurrent Admire

りかれんと・あどまいあー。

[学校・英語・ICT・リカレント・家庭]教育、教職員のウェル・ビーングなどについて

ICTに関する動き

edtechzine.jp

 

要点:

・同じ箇所を勉強していても、生徒一人ひとりに違う問題が表示される。これを実現するのがEdTech

・英語スピーキングのアウトプットが「ある程度までは」練習できる

・AIを使えば、シャドーイングもクイックレスポンスも機械がやってくれる。これまではネイティブスピーカーしか教えられなかったことも、生徒自身が自分の英語の発音を録音して聴き比べたり、AIに判定してもらったりすることができる

・ディスカッションなどの探究学習は個別最適化ができない。英語に当てはめると「基礎的な発音、文法、読解は個別最適化できても、それ以上は難しい。

 

つまり、基礎的、基本的なところは、個人でトレーニングして、学校に来て、コミュニケーション的なことをする、というような形に変わってくるだろう。

 

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要点:

・オンラインで授業さえ受ければそれでよいのだというような、易きに流れるようなことは決してあってはいけない

・何らかの事情で学校に来られない不登校の皆さんも、授業の遅れがないようにICTを活用することは大いに結構だ。結果として(不登校支援での)活用率が上がることは期待をしたい

・学校現場で先生方はクラスメートや地域、家庭と連携しながら、何とか不登校の子供たちを学校に通える子にしていこうと努力していただいている

 

文科省は、「学校は来るべきところだ」「学校には行ったほうがよい」という姿勢を、強固に取り続けるつもりであるらしい。

そこには賛成。

社会全体として、「学校は行くべきところだ」という姿勢は取り続けなければならないと思う。

とりあえずもう数十年は。

 

では、「学校に行かなくてもいいんじゃないか」と思っている層について、考えてみる。

①コミュニケーションに対して苦手意識がある

そして、それが克服できにくい/ない場合、学校に行かなくてもいいんじゃないか、となる。学校は特別支援や、個別の教育相談などに力を入れてきているが、いじめ問題、不寛容、たったひとりのためにお金をさけない、などで、対応が不可能な場合もある。

②通学の危険性、遠隔地

通学すると、危険は高まる。また、遠隔地まで交通費をかけてわざわざ通わなくても、ICT授業でいいかもしれない、という場合。そもそも人間が移動すると二酸化炭素が生まれる。現在の環境にとって、旅行も移動も生産も、控えすぎても足りないくらいの負荷だ。

③ICT万能

ZOOM的なものに触れ、ICTはますます進化していくだろう。

とりあえずテキストコミュニケーションから音声、映像までは一瞬で同期されるようになってきた。まだ遅延があったりするが、それも1秒以下の世界になってきた。

今後、どんな風に進化していくのか楽しみでもある。

画面が大きく:より等身大の同期が可能に

触覚などが同期されるようい:さわっている感じとか、そういうものまで同期されるように

大集団での同期が可能に:今は、誰かが発言していると他の人はミュートにして口をつむがなければならないが、通信インフラも増強され、インターフェースも変われば、同期したときの、一人一区画的なものもなくなり、もっと共有感の高い、もっと大人数で、同時に何かを共有することができるようになってくるのではないか。

 

例えば、Microsoftの"together mode"などの試みが面白い。

www.youtube.com

 

より一体感が生まれ、こちらが見ている目線が、きちんと話している相手の目線にあうようになったりする。

ミュートを押さなくても、不必要な音は共有されない。

距離感が計算され、遠くの人の音声は遠くに、小さく聞こえる。

VRなども発達し、席替えや散歩や仮想空間での集団移動も可能になっているかも知れない。

 

しかし、どこまでいっても、「リアル」は共有できない。

日本的な言い方に「空気」があるが、本物の匂いや、人が動いたときのそよぎ、そういったものの総体から感じられる魂やオーラのようなもの。

 

けれど、「バーチャル・リアリティ」での社交に慣れた人々は、そんなものは必要ないと思うかも知れない。

代わりに視覚的・聴覚的な情報が拡張され、より多くの情報がやりとりできるようになるかもしれない。

 

ところで、日本的「空気」については、テキストから音声から無音映像同期でさえ、発生はすると思う。

それは、人と人が何らかの「共有」を行ったときに、必ず生まれてくるものだからだ。