この手で飼い殺した憧れを解放したい、について考える
タイトルは、Mr. Children『Brand new planet』より。
ミスチルは、小学校の頃、教育実習生の先生のお別れ会で『Tomorrow Never Knows』を歌って以来、ずっと好きで聴いている。
今は、新しいアルバム『Soundtracks』をCD屋さんで買って聴いている。
私にとって、発売日を楽しみにして、リアル店舗でCDを買うアーティストは、もうミスチルだけとなった。
大学時代から、ヤヌシュ・コルチャック先生の「あこがれ」について考え続けている。
今回は、「憧れ」というキーワードで考えたことを少し。
この曲の中には、「可能星」「新しい「欲しい」まで もうすぐ」といった言葉がちりばめられている。
ダジャレかよ、と思いながら、そういうお茶目なところ、そしてそれを素知らぬ顔でカッコよく歌い切ってしまうこと、そしてこちらはしっかり何かを考えてしまっていること、そのあたりがミスチルのスゴイところ。
歌詞の人物は、「あこがれ」を飼い殺している。
夢を、希望を、飼い殺している。
こうしたいんだけど、しない。
あこがれ、夢、希望を、「欲しい」と書いてしまうと、すごく資本主義的だ。
でも、そこを揶揄しつつも、何かに向かって歩んでいく人間の営為を、どこかで肯定しているように思う。
高度経済成長を遂げた日本で生きる私たちにとって、「欲しい」とか「成し遂げたい」とか「夢を叶えたい」は同義か。
ここでは、単純に物欲だけで、「千欲しい、千欲しい」と言っているわけではない。
私は、あのミニカーが欲しい、あのゲームソフトが欲しい、あの職業が欲しい、あの女性が欲しい、よりよい教育が欲しい、よりよい社会が欲しいと思いながら生きてきたが、どこまでが低俗で、どこからが高尚なのか、それはだれにもわからない。
誰かがものさしをつけるか、自分で決めるか、あるいは決めること自体がナンセンスなのか。
ともかく、新しい「欲しい」ということと、コルチャックが言った「あこがれ」ということと、それらを受けて、私が学校でするべき「未来の与え方」みたいなことについて、書いている。
この曲が聴こえてきたとき、アフター・コロナという言葉もあいまって、小難しいことを考えた。
経済成長、環境破壊、成長をひた走ってきた私たちの住む惑星の、新しい社会の、新しい私たちの生活様式の。
英語で「欲しい」はwantである。
日本語で「欲しい」と書いた時、そこに「欲望」があるから、変な気持ちになる。
英語で「求める」はwantである。なんなら、wishやhopeを使ってもいいが、want「欲しい」でも足りる。
中学生なら、「将来の夢」を語る時に、wantを使う。
I want to be a doctor fighting against covid-19.
何も言えねー。
※ここでは、コロナを敵と見立てて駆逐しようとしているふうにはとらないこととする。コロナと共に。
学校は、夢を達成するところでも、学業を修得するところでもないと思っている。
修了証書とかあるけれど、それは「とりあえずここまでは」みたいな感じだと思っている。
夢は卒業して、学校を出てから、自分で叶えるものである。
そのための力をつけるのが、学校である。
学業は、自分で修得するものである。
生涯学習、あるいは生涯かけても成しえないかもしれない。
だから、学校を出た後も歩んでいける力を、突き進んでいける情熱を、学び続ける炎をもたせられたらいいのにな、と思う。
教育的な話だと、主体的に学び続けることができる、学ぶ方略を知っている、対話の方法や価値を知っている、探求し続けられる、「深いところ」の方向や雰囲気や味や気配や匂いを知っている。
このあたりのことをひっくるめて、私は「あこがれ」と思っている。
いいじゃない。
この歌詞の人物は、どうやら「あこがれ」はもっているらしい。
私が学校教育で成しえたいことは、達成されているみたい。
なぜ日本人は英語が使えない人が多いのか
Quoraという、ヤフー知恵袋などのような、問答集。
このサイトの場合、解答者が専門家などが多く、なかなか面白い。
質問に対する答えの中には、単純に、英語を使わなくてもよい環境だから、というものが。
日本人は、日本語圏がそれなりの経済力をもち、その中で生きていくことができる。
日本語文化圏内でも、アニメ、マンガ、ゲーム、芸能、文学など、きちんとした文化があり、その中で楽しんでいくことができる。
その昔、英語公用語論というものがあったが、結局達成されなかった。
強制力を自分たちで発動させるのは難しい、ということと、日本人に英語の強制力を発動させるまでの切実さがなかったのだろう。
内向きな考え方だが、日本語で話すことは、暗号で話すことと同じで、外国に技術や文化や思想やノウハウなどが流出しないメリットもあるのではないか、という意見を聞いたこともある。
翻訳機も発達し、英語を学ぶ意味自体が問われている。
ある回答者、「外国語は、「世界にはこういう発想をする人たちがいるのか!」と知ることを目的にすればよいでしょう。コミュニケーションはAI通訳に任せられる時代が目の前です。」
英語教育に携わる者の無能、というものもあった。
無能の一人として、努力します、としか言えません(笑)
そんな中、オールライトちえみさん(英語講師)の回答が特に面白かった。
・その言語が属する社会や文化を切り離すことはできない
・それらを切り離して学ぶと、「切断型英語」にしかならず、使えるようにはならない
・社会や文化をいっしょに、「包括型英語」を学ばなければならない
最近、STEAM教育について考えた。
STEAMのAはArtなのだが、これがもっと必要ではないか。
Artとは、絵画やクラシック音楽というだけではなく、日常のデザイン、洋楽、それこそ「その言語が属する社会や文化」のあたりに属する手触り、クオリア、書いていて定義がなにがなんだかわからなくなってきたが、ともかく「文化」だ。いや、「社会」か。
で、時間的な余裕ができたから、日本の「文化」、いや「社会」にも目を向けている。
日本と韓国がプロモートしたアイドルだ、最速で5本の指に入ったアニメだ、GPSとARを活用したゲームだ。
心をなくしたからでもあった。
感じない子ども、こころを扱えない大人。
だって、物事をスムーズに進めるためには、心ってわずらわしいんだもの。
ブラック環境で働き方改革、教育公務員になるためには、心を扱わないほうがいい。
生徒も、野菜かなにかだと思い、心をもたないと思ったほうが扱いやすい。
・・・文化が枯渇し、心が干からびてしまうところだった。
自分の英語学習環境も、生活環境ごと見なおそうと思った。
パソコンやケータイの言語を英語に変えた。洋楽を聴くようになった。外国のPodcastを聴くようになった。英語の単語帳や文法書、TOIECの問題集だけが英語じゃないよな、と見直すようになった。
環境を、「英語仕様」にするのだ。
それって、文字通り包括型の英語環境?
では、学校の教室で、どこまで文化、あるいは社会を持ち込めるのだろうか。
・日本文化をさしおいて英語の文化か、英語で日本文化を語るのはどうか
・英語でフランス文化や中国文化を学ぶのはどうか
・ゴシップはどうだ
洋楽を歌う。
日本のコミックの英訳。
要はオーセンティックということか?
状況設定なのか?
それとも、自分自身のこと、身近なことを、深い部分で、英語で表現できるということが大切なのだろうか。
それは、英語の服を着た日本語なのだろうか。
***
他にも、こんな質問も。
アインシュタインの引用とともに書かれていて、興味深かった。
彼女が水着に着替えた理由
街中にゴシップが散撒かれる。
面白がって人々が、それに火をつけていく。
自分より劣っていると、ほっと胸を撫で下ろすため。
そうして我々を守ってくれるはずの社会は、時に鋭い牙を剝く。
やれ落ち目だ、
やれ不適格だ、
やれ感染者だ。
強烈なドキュメンタリーを見た。
NHK『ストーリーズ』、「彼女が水着に着替えた理由」。
タイトルにちょっと下心が惹かれたことは否定しない。
それで見始めると、映し出される人たちがちょっとだけ泣くことがあって、なぜだかこっちも泣けてきた。
ちょっとだけ泣いた人たちが小さな子どもたちの親であって、そこに同じ立場を感じたからだろうか。
エマさんの息子さん、強いなあ。
4歳のオスメイトさん、お父さん、お母さん。
オスメイトのことなんて、ほとんど知らなかった。
人権問題で重要なのは、知ること、想うこと、行動することであると思う。
エマさんは、表現という行動を通して、みなにその存在を知らしめた。
知らしめたことを見て、人々は何を思うだろうか?
知らしめたことで、共に悩む人々にエールを送ることになった。
知らしめたことで、想いはあるものの、無知な私たちの、心ない一言をたしなめてくれることになった。
知らしめたことは、オスメイトという困難の存在、というだけではない。
それを乗り越えて輝いて生きる、楽しい、幸せな、人生をも、だ。
僕はそんな人生を?
僕の家族は?
僕という教師は?
そこに偶然集ってくれる生徒たちは?
参考:
習慣の経年劣化、儀式と習慣
シゴタノ!、おもしろく読ませていただいております。
習慣の経年劣化とか、儀式とか、ネーミングセンスも光っています。
上記記事には、なかなか深いことが書かれてあったので、メモ。
・習慣も経年劣化する
・儀式には意味がある
・儀式が続くことが習慣である
・儀式が形式になっていたらやめるか、新しい意味を吹き込まなければ(メンテナンスが必要)
・儀式=テンプレートという言い方をする人がいる(あるいは儀式の習慣化=テンプレート?)
マニュアルというものがありますが、それを実際の行動としてとらえたのが、テンプレートでしょうか。
マニュアル人間という言葉も流行りましたが、とりあえず守破離の守ですね。
そして、自らを認知・検証しながら歩んでいく、創造的な営みでもあります。
家庭でも、そういうことはたくさんあります。
家族の言葉に傾聴するとか、掃除とか、料理とか、子どもにどういう言葉をかけて送り出すかとか。テレビやスマホの見方、勉強・読書時間の確保とか。
学校現場でも、経年劣化する習慣は山ほどあります。
出席をとるのは、体調管理やその日の気分なども見てとるためですが、テスト範囲に追われたり、自分の心の持ちようだったり、研修に追われたり、直前の指導ではらわたが煮え繰りかえっているままだったり、おざなりになったりすることもあります。
英語の授業では、授業のはじめに「帯活動」という、毎回続けて力にしていくような活動があります。1分チャット、単語習得、ピクチャディスクライビング、なんでもいいのですが、目的と効果を検証・メンテナンスしながら続けないとなあ。
職員室では、年始のグランド・デザイン、学校目標は、1ヶ月もすればなきものに……とか。
この前研修してきたあの内容。例えば新学習指導要領の中身の実践とか……。
安全管理面ではこういうことがあってはなりません。
救命救急講座、設備チェック、校内巡視。
でも、安全バイアスがかかってきたりして……。
経年劣化する習慣、なかなか根深く、手ごわい問題です。
あらためて「院」で学ぶ
スタディサプリの雑誌で、「社会人大学院」という本がある。
スタディサプリ社会人大学院 2021年度版 (リクルートムック)
教育系の大学院だけでなく、さまざまなリカレント、学び直しが世の中にはある。
ページをめくると、一橋大学の広告が目に入る。
「教わるだけで、ホームランが打てるだろうか。」
"答え"を探求し続けているということ。
気付きを得る、学ぶということは、修業のようなものかもしれない。
そうだ、僕らにはまだまだ学ぶべきことがある。
よき保護者として、学校を肯定するために
今回は、保護者の立場で学校を見つめてみる。
学校が好きだった、あるいは学校は必要だ、あるいは学校がいまひとつ、と思っている人へ。
学校を否定したり、担任の先生を否定していたりすると、当然ながら、教育効果はあがりませんよね。
で、よき保護者として、批判すべきところは批判するんだけれど、基本的には、学校を肯定していこう、という話。
うちの子どもたちは小学校に通っていますが、基本的に学校を肯定していこう、というスタンスでいます。
学校文化を否定しない。
それが、子どもたちの居心地もよくするだろうし、教育効果もあがるだろうし、毎日を楽しく過ごせるのではないかな、と思っています。
そのためにしていることを2つ。
まず1つ目は、担任の言葉の真意を説明すること。
あるいは真意でないかもしれませんが、担任の先生の言葉は、あるいはこういう意味かも知れない、と、深読みしてみることです。
言葉の表層だけをとって糾弾するのではなく、あるいはこういうことを言いたかったのかもね、と翻訳してみる。
ほんとうにほんとうに、言ってはいけない言葉に関しては、管理職にでも届けますが。
2つ目は、行事や、授業で習った音楽をかける。
運動会や、文化祭。
授業で習った曲、集会で歌う今週の歌などをかけます。
子どもたちは楽しそうに口ずさみます。
他学年の出し物の曲でさえ、そうです。
音楽を楽しみながら、行事を思い出しているようです。
こういうのって、いいんじゃないか、と思っています。
いかがでしょうか。
教職大学院に来た意味
大学院に来て、リカレント教育を受けられていることをしみじみ有り難く思う。
そして、大学院に来た意味って、効果って、何があるだろう、と考えてみた。
院に来ていちばんよかったと思うのは、心に余裕を持てたっていうことだと思う。
20代の頃に、「社会に出て、擦り切れて丸くなっていくんだろうなあ」ということを考えたことがあった。
社会に出て、教師になって10年以上、それなりにうまくやってきたとは思うが、結局、やっぱり、擦り切れて、丸くなって、ところどころ痛んだりして、痛んでいるけれど見ないふりをしていたりするところがあった。
そういう点は、尖ったことをしなくなったり、無感覚になっていたり、ともかく、子どもたちと向き合うのには不釣り合いな教員になってきていたところも事実。
心を洗濯したり、しわを伸ばしたり、空気をいれなおしたりして、復活できてきたぞ、という手ごたえがある。
視野が広がるとか、アンテナをたてるとかいう進歩もあった。
毎日何かメモすることが生まれてきた。
いろんなものを見聞きして、それを吸収しようっていう気持ちになったりした。
子供が好きだ、と素直に言えるようになったりした。
学生時代の心持ちに戻れた。
それって、生徒と同じ目線に再び立てた、ということ。
それは、再び教壇に立つ上でも、とっても重要なことなんではないだろうか。
安全衛生推進者
常時10人以上50人未満の労働者を使用する事業場では、安全衛生推進者を選任し、労働者の安全や健康確保などに係わる業務を担当させなければなりません
労働基準法により、定められている。
学校には、校務分掌というものがあって、先生それぞれに割り振られている。
ただ、校務分掌表を見てみると、ものすごく細かく、多岐にわたっている。
一人の先生は、この校務分掌を7つとか8つとか、担当しなければならない。
校務分掌について、見直しを行っていかなければならない。
そうしなければ、学校は忙しいままだ。
タイトルの「安全衛生推進者」という校務分掌はない。
しかし、「セクハラ相談員」という校務分掌がある学校があった。
でも、職場環境で問題になるのは、セクハラだけか……?
文部科学省が「学校における働き方改革」として、教師が行わなくてもいいんじゃないか、という仕事について提案している。
ただ、じゃあ誰がするの、誰がやってくれるの、という問題が浮上する。
誰がやってくれるかの交渉をする時間も能力も、学校にはないのが現状だろう。
どこか第三者機関が入っていかなければならないのだが、またそれがなかなか難しいんだろうなあ。
学校内でICTに制限をかけることについて
一人一台の端末に対して、地方自治体がいろいろ制限をかけていることについて。
非常に面白く読んだ。
- カメラ禁止
- アプリインストール禁止
- Chromeはブラウザベースなのに、ネットにつながらなくなる
そして、最後に、とても重要なことを書かれていた。
リテラシー教育を行わずに制限だけかけておけば良いと言う考え方
子どもたちに、「使用時間について」「スマホなどの誘惑にどう打ち勝つか」ということを考えさせなければならない。
よくわかる鉛筆の例が提示されていました。
「鉛筆はさー、あの尖った先で友達を突き刺したら危ないから禁止しない?」
「鉛筆の尖った部分が危険だから丸めた状態にするように指導しよう」
ハサミも、包丁も、ノコギリも、すべてそうですね。
道具は使いよう、です。
***
「○○との付き合い方」を学校では学ぶべきです。
それが、生涯学習につながります。
「○○」には、いろいろなものが入ります。
語学、お金、友だち、ゲーム。
危険薬物、政治、歴史、科学。
異性、悩み、芸術、欲望。
ネット、メディア、時間、などなど。
学校以外で学ぶこともあると思います。
でも、先生という大人と、同世代の友だちとわいわい言いながら、公的な補助を得ながら、基礎基本を学べるのは、学校だけではないでしょうか。
こう書きながら、必要な要素について考えました。
まず、先生という大人。これがしっかりしていないといけない。最新の状況や情報、科学、知識に精通していないといけない。
ICT、なにそれおいしいの、ではいけない。
次に、同世代の友だち。
いじめなどがあってはいけない。
居心地のいい環境をつくらなければならない。
そして、公的な補助。
学習指導要領などの、国をあげて練り上げられたカリキュラムの案がある。
お金や設備もいくぶんかあてられる。
そうした状況の中で、子どもたちが、生涯にわたって付き合っていくものとの関わり方を学び、卒業していく。
そういう考え方が重要だな、と思いました。
生徒に夢を語りにくいことについての考察。
生徒にアツく夢を語る。
生徒が「あこがれ」をもつためには、必要な作業だ。
でもこの頃、生徒に夢を語りにくい、と感じるようになってきた。
そのことについて考察してみた。
***
①情報不足で語れない場合。
変化めまぐるしい時代で、未来のことを語りにくくなっている場合だ。
教員研修、リカレント教育は重要だと思う。
教員が学ぶとき、聞く耳をもっていて、きゅっと吸い取るスポンジが乾いていないといけない。
教師に余裕がないといけない、と思います。
②未来予知ができにくくとも、「人にやさしく」「最大多数の最大幸福」など、いつの時代も変わらない価値観は語れる。
けれど、そんなヒューマンなことばかり、泥臭く語ることが許されないような空気もある。
表立ったいじめはしない、最低限言われたことはそつなくやっておく、人には迷惑をかけない、という集団を前にした時、何を語るべきか、戸惑う自分がいる。
③冷めた時代、上記ヒューマンなこと、熱苦しい語りや指導は敬遠されます。
それが中身のない演技ではしらけます。
じゃあ私たちの中身をどう育てるのか?
難しい問題です。
ある中学校の先生が、合唱が大嫌いで、いつも文化祭は憂鬱だ、と言っていました。
その先生は文化祭で心から燃えることは難しいと思います。
同じように、上から言われたことを教育するとき、我々は自らが燃えることなく、教育することがあります。
でも、公立の場合、それを教育しないと拒むことはできません。
そういう「我慢」が、教師から熱を奪っていくところもあるんじゃないかと思います。
すべてに燃えることは難しいので、自分の譲れない「これ」に燃えられたらいい、とは思うのですが。
④教室ファシズムのようなものもどうかなあと思います。
戦前教育の「教え込む」という失敗も怖いです。
教師が熱く燃えて、それに感化される生徒というものを、ある種気味悪く思う「トカトントン(太宰治)」も自分の中にあります。
環境教育などにもそれを感じるときがあります。
洗脳への恐怖です。
*
子どもの心に火をつける、というのは難しいよなあ、と思います。
これは「主体的な学び」に含まれていると思うのですが、本当に燃えている子どもを育てるのは、なかなかに難しいですね。
子どもの学びに火がつき、「あこがれ」のほうへ向かっていく時に、子どもと一緒に燃えられる教師。
子どもというたき火のそばにいて、蒔をくべるような、炎のコントロールをするような、そんな教師がこれからの教師かな、と思いました。