生徒に夢を語りにくいことについての考察。
生徒にアツく夢を語る。
生徒が「あこがれ」をもつためには、必要な作業だ。
でもこの頃、生徒に夢を語りにくい、と感じるようになってきた。
そのことについて考察してみた。
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①情報不足で語れない場合。
変化めまぐるしい時代で、未来のことを語りにくくなっている場合だ。
教員研修、リカレント教育は重要だと思う。
教員が学ぶとき、聞く耳をもっていて、きゅっと吸い取るスポンジが乾いていないといけない。
教師に余裕がないといけない、と思います。
②未来予知ができにくくとも、「人にやさしく」「最大多数の最大幸福」など、いつの時代も変わらない価値観は語れる。
けれど、そんなヒューマンなことばかり、泥臭く語ることが許されないような空気もある。
表立ったいじめはしない、最低限言われたことはそつなくやっておく、人には迷惑をかけない、という集団を前にした時、何を語るべきか、戸惑う自分がいる。
③冷めた時代、上記ヒューマンなこと、熱苦しい語りや指導は敬遠されます。
それが中身のない演技ではしらけます。
じゃあ私たちの中身をどう育てるのか?
難しい問題です。
ある中学校の先生が、合唱が大嫌いで、いつも文化祭は憂鬱だ、と言っていました。
その先生は文化祭で心から燃えることは難しいと思います。
同じように、上から言われたことを教育するとき、我々は自らが燃えることなく、教育することがあります。
でも、公立の場合、それを教育しないと拒むことはできません。
そういう「我慢」が、教師から熱を奪っていくところもあるんじゃないかと思います。
すべてに燃えることは難しいので、自分の譲れない「これ」に燃えられたらいい、とは思うのですが。
④教室ファシズムのようなものもどうかなあと思います。
戦前教育の「教え込む」という失敗も怖いです。
教師が熱く燃えて、それに感化される生徒というものを、ある種気味悪く思う「トカトントン(太宰治)」も自分の中にあります。
環境教育などにもそれを感じるときがあります。
洗脳への恐怖です。
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子どもの心に火をつける、というのは難しいよなあ、と思います。
これは「主体的な学び」に含まれていると思うのですが、本当に燃えている子どもを育てるのは、なかなかに難しいですね。
子どもの学びに火がつき、「あこがれ」のほうへ向かっていく時に、子どもと一緒に燃えられる教師。
子どもというたき火のそばにいて、蒔をくべるような、炎のコントロールをするような、そんな教師がこれからの教師かな、と思いました。