教員同士で責めないということ
教員同士で責めないということ。
つまり、同僚同士で責めないということ。
職員室の中で、チームになるということ。
ともすれば、お互いのことを責めてしまう。
それは、方針が違うからであったり、
教育技術が未熟だったり、誤ったことをやってしまっていたりであったり、
失敗を責めたり、
保護者対応を責めたり。
新採の先生には、ひとつひとつ、ていねいに教えていく時間と、余裕と、教師の志が必要だと思う。
先輩教員は、自分たちの仲間が、後輩が育っていくのを、見守りたい。
そういう心持ちが必要だと思う。
聖職である教師になるのだから、聖人君子で当たり前、という時代は終わった、というようなことは以前書いた。
もちろん犯罪は容認しないが、いろんな人がいるだろう。
教育は学校だけではなく、地域で、すべてで行う、と思ったとき、教育を行う資格は、とりあえずすべての人にあるのだから。
どこか抜けていて、ほうけていて、だらけていて、しゃきっとせずに、サボっているように見える新採がいたとして、
でも本当にそうなのか、
わざとやっているのか、
そういう風に見せているだけで、本心情熱はもっているのか、
じっくり見ていく必要があると思う。
映画『スター・ウォーズ』の中では、師(メンター)の教えから逸脱し、悪の手に落ちていく後輩の姿が描かれる。
彼は彼なりに、体制の古さや、いかがわしさ、汚れている部分を見つめる。
新しい力に魅せられていく。
やがて、その組織を抜け、自らの闇に堕ちていく……
やり方が違うことはあると思う。
みんな違ってみんないい、と言いながら、職員室では寛容になれていない場合があったりする。
ひとつ、大きなところで見失ってはいけない方向性、「子どものために」というところでは一致したい。
でも、「子どもを伸ばす」と言ったときに、ではどの方向へ?と、方向性の違いが浮き彫りになったりする……。
それって、家庭におけるパパとママの教育方針の違いとかでも、あるあるである。
厳しさと、優しさ。
量と、質。
どれだけでもと、ここまでしかできないと。
経験則と、勘と。
お互いを責めるのではなく、認め合い、話し合い、歩み寄り、中庸を行くということ。
言うは易し。
それでも。